武雄神社 佐賀県武雄市武雄町大字武雄

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武雄市の神社

こちらの武雄神社はJR佐世保線武雄温泉駅の南南東およそ1kmほどの距離、佐賀県武雄市武雄町大字武雄地区の南の町外れに鎮座されます。

国道34号武雄バイパス天神崎交差点から南、県道330号武雄塩田線へと抜ける「武雄てくてく道路」を250mほどの右側に立つ一の鳥居から300mほど西へ入った、武雄市の観光名所の御船山を背に位置しております。

参道口。

参道入口に立つ一の肥前鳥居。

寛永18年(1641年)建立の刻銘が入っている。

一の鳥居前に建立されている石灯篭。

神池「心字の池」の案内板。

「心字の池」に架かる神橋。

神橋を渡った先にある石段参道前に立つ二の台輪鳥居。

さらに石段参道を上がると、次は境内入口に立つ三の肥前鳥居が建立されていました。

左の柱には「寛永十八年辛巳歳暮春吉日良辰」の刻銘が入る。

「武雄神社」の神額が掛かる。

境内側から見る三の鳥居。

唐破風付き流造の拝殿。

「昭和四十七年十月吉日」の刻銘が入る塩田型狛犬。

流造の本殿。

境内社の「塩釜神社・城山稲荷神社」の前に立つ台輪鳥居。

塩釜神社の石祠。

石祠を守護する狛犬。独特の風貌をした狛犬さんですが、残念なことに阿形は上顎が欠け落ちてしまっています。建立年は不明ですが台座は新しく制作されたものだと思われます。

案内板。

案内板。

『武雄神社本紀』によると、神功皇后が三韓征伐の帰途、武雄に兵船を止め、それが御船山に化したとあります。これにより同行していた住吉神と武内宿禰が御船山の南嶽(船の艫)に鎮座し創祀されました。
而して天平七年(七三五年)初代宮司 伴行頼に『吾は武内大臣である。艫には住吉神がおられ、艫嶽に祀られていても畏れ多く落着かないので、幸い軸嶽に自分を祀るならば、末永くこの地に幸福が訪れるであろう。』との神託がありました。行頼は太宰府を通じて朝廷に奏請し、武内宿禰を主神に、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、武雄心命を合祀し北麓に奉遷し武雄宮が創建されたと記されています。

元永年中(一一一八~二〇年頃)武雄二代領主 後藤資茂が、朝夕秀麗な御船山の麓に鎮座する武雄神社を望み、築城の適地と思い、朝廷に奏請して当社を舳嶽東麓(現在地)に遷しました。

文治元年(一一八五年)の壇ノ浦の戦いでは、源頼朝が当社に密使を使わせ平家追討祈願をしました。平家を滅ぼした頼朝は、勝利を武雄神社の神徳によるものと感じ、後鳥羽天皇の勅使と名代の御家人を赴かせ『御教書』を送り深謝しました。
この参詣を歓迎して、武雄四代領主の後藤宗明が流鏑馬を奉納し、以来、氏子のてによって『武雄の流鏑馬』は、八百年以上ものあいだ連綿と継承されています。 また、これを機に武雄神社と源氏との関係は極めて密接となり、神社として将軍家の祈祷に当たる関東御祈祷所の使命と、社家として御家人の使命を有し、二重の立場に於いて活動することになりました。

鎌倉中期の元寇では、未曾有の国難に際し、伏見天皇より異国降伏の祈祷の『綸旨』を賜る光栄に浴するなど、国家的な存在でありました。本紀によれば、文永の役の十月二十日の夜、武雄神社の神殿から鏑矢が元軍船目掛けて飛び、元軍は逃げていったとしてあり、また、弘安の役では上宮から紫の幡が元軍船の方に飛び去って、大風を起こしたとあります。この霊験により『九州五社ノ内』と称され、九州の宗社として隆々と栄えた時代もありました。

現在では武雄の氏神社として、また樹齢三千年のご神木を祀る神社として、氏子はもとより全国各地から広く信仰を集めております。

武雄神社の中には縁結びの御神木である夫婦檜もありますし、境内の西側から御船山の麓に向かって歩くと、樹齢が3000年以上ともいわれる大楠があります。

見どころが満載の武雄神社は、神社に興味が無くてもけっこう楽しめますのでお勧めの神社です。


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