こちらの北面天満宮は、JR長崎本線佐賀駅の南西およそ1.5kmの距離、佐賀県庁から西に1kmほど行った佐賀県佐賀市六座町の街なかに鎮座されます。
国道207号線「長瀬町」交差点を北に向かい、街並みを南北に分けるように東西に延びる一方通行の旧長崎街道を進んだクリークに架かる橋の手前右手に位置し、道路際には明暦四年造立の肥前鳥居が建立されています。
流麗な造形の肥前鳥居をくぐると、綺麗に箒の目が立った玉砂利が敷かれた清々しい参道が一直線に延びており、間髪を置かずに建立された神門の先の境内に小型の狛犬が守護する銅板葺き入母屋造の拝殿と流造の本殿が建立されています。
面白いことに神門の頭貫には“かっぱ”の木像が祀られています。昔、川に落ちて溺れている子どもを河童が飛び込んで助け、それ以来河童が神門の上から下の流れを見下ろして番をするようになり、川に落ち込む子どもがいなくなったという言い伝えから「守護河童」として祀られています。
佐賀県神社誌要には「北面天満神社」と記載されますが、境内の案内板や社号額には「北面天満宮」と書かれていることから、今では北面天満宮の呼称が一般的なのかと思われます。
旧長崎街道の道路際に建立された明暦四年(1658年)造立の刻銘が入る肥前鳥居。
鳥居には「天満宮」の神額が掛かる。
神門。
神門の入り口側には見事な龍の細工が施してあります。
境内側にはお猿さんでしょうか?
下の方を見ると、柱に設置された立札には「守護河童」と書かれています。
佐賀市の資料を紐解いてみると、その昔川に子どもが落ちて溺れているのを“かっぱ”が飛び込んで助けたといい、それ以来“かっぱ”は楼門の上から下の流れを見下ろして番をするようになり、以降は川に落ち込む子どもがいなくなったという言い伝えが残っているようです。
私には緊箍児を付けた孫悟空のようにも見えたのですが、どうやら違ったみたいですw
手水舎。
銅板葺き入母屋造りの拝殿。
拝殿前には、可愛い小型の狛犬さんがしっかりと守護しておられました。
拝殿向拝下の様子。「北面天満宮」の神額と黒の般若面が掛かっております。
拝殿の中はとてもきれいに整理整頓されております。柱や天井部を見ると古い木材が使われているようですので、建て替えではなくリニューアルされたようですね。
北面天満宮の縁起と六座町の由来
境内の案内板より
北面天満宮は、むかし、鍋島町蛎久が肥前の国府であった頃、市場に鎮座の一国一社の天満宮を佐賀城下の町造りの際、鍋島直茂が蛎久の市場と共に当地に移してまつった。
当時蛎久で神社の諸事を司っていた天徳寺住持、竹庵西堂は藩主の命を受け豪族右近刑部その他有力な人々とともに天正3年(1575)11月25日神霊をこの地に移してまつり現在に至っている。
以来天満宮は文教の守護神として又、火災除けの神として住民の崇拝厚く、その実りとして六座町には今日まで大火災はないと言われている。現在の神殿は貞享3年(1686)拝殿は元禄15年(1702)改築されたものである。
又、所蔵の大太古は慶長11年(1606)政策され石の鳥居は明暦4年(1658)の建立となっている。六座町の名は、蛎久から天満宮とともに市場が移されたとき穀物座、木工座、金銀座、縫工座、煙硝座、鉄砲座の六つの座ができたことから由来している。六座町は佐賀城下で一番古い歴史を持った町で、市場発祥の地として長崎街道佐賀城下の繁華街であった。
村社 北面天満神社 佐賀市六座町
“佐賀県神社誌要”より引用
祭神 菅原道真
往昔、肥前佐嘉郡蛎久の里に、當國の政廟ありて、同所に斎き、一國一社北面の鎮守と仰き、国府天神とも云ひ傳へたり。後府を當佐嘉の六座町に移され、當社も亦當地に遷座せらりたり。時に天正三年霜月二十五日にして、六座町は、佐賀城最初の町立と云ひ傳へらる。古来より火難除けの神として霊徳著しく、庶人の崇敬浅からず、社格制定に當り村社に列せらる。
幣殿と本殿。
境内社。
境内左側の庚申碑と石仏群。
こちらの北面天満宮さんも旧長崎街道沿いにありましたね。こうやって神社参拝を続けてくると、長崎街道沿いに神社が立っていることは多いのが分かって来ます。
やはり昔は、長い旅の安全を願ってお参りするというのは多かったはずですし、街道沿いに神社を建てるというのはごく普通のことだったのかもしれませんね。
それでは今日も最後までご覧いただきありがとうございました。
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