青幡神社 佐賀県武雄市北方町大字芦原字芦原

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武雄市の神社

こちらの青幡神社はJR佐世保線北方駅の南方およそ2kmほどの距離、佐賀県武雄市北方町大字芦原字芦原地区の集落南側にある勇猛山いみょうざんの山裾に鎮座されます。

国道34号線沿線にある北方駅近くにある焼米橋バス停付近から南へ入り、突き当りの県道36号武雄福富線のさらに南方、約800mほどの民家の間を抜けた場所に位置します。

コンクリートで舗装された参道入口には、やはりコンクリートでできた神橋が架かり、一対の石灯篭とともに青幡神社を紹介する案内板が立っております。

時折聞こえるカラスの鳴き声が、人里離れた山間の神社であることを知らしめてくれます。

社頭。勇猛山へと向かって伸びる参道。

案内板。

境内入口の石段前に立つ鳥居。

鳥居には「青幡山」の神橋が架かります。

文政5年(1822年)建立の刻銘が入ります。

境内へ続く石段。

吽形が玉取り、阿形は構えの狛犬さんです。

昭和15年2月生まれの狛犬さんで、橘村上野(現:武雄市橘町大字永島)の石工小田繁八さんが製作されたものでした。下の二つの神社にも小田繁八さんが製作された狛犬さんが居ます。

瓦葺き入母屋造りの拝殿。虫よけなのでしょうか、格子の部分にすべて透明のビニルフィルムが張り巡らされていました。

拝殿の中の様子。

 当社は伊万里市山代町里に鎮座の青幡神社から分祀され、現在の場所に祭られたものである。「佐賀県神社誌要」によれば、村社青幡神社芦原

祭神 源融 菅公 海津見 豊玉姫

 大治二年(一一二六)正月九日第八代源久其祖融を山代郷に勧請して青幡大明神を号せしが、其後矞山代虎王源貞(芦原初代)に至り、秀吉の名を受け本領は松浦豊前守に譲り、自身は幼少の故を以て三百町の扶助を受け隆信に預けられ芦原後藤貴明居城に移りしにより、天正十五年(一五八七)青幡大明神も分霊して、分の社地に奉祀せり。爾後明治十二年八月七日村社。氏子八六戸とあり、鳥居の額には「青幡山」右柱に「文政四巳」(一八二一)中春川原善右エ門、川内野忠右エ門」と刻んである。又青幡・若松社社宮司の「明細書」「由緒記」によっても同意同文のことが記されている。昭和六十三年十二月吉日

拝殿内由緒書きより

本殿。

手水舎。

御堂。

こちらの青幡神社さんは伊万里の青幡神社さんから分祀されたとのことでした。

そういえば伊万里の青幡神社さんも参拝していたことを思い出しました。まだブログにアップしていなかったようでしたので明日アップしようと思います。

それでは今日も最後までご覧いただきありがとうございました。

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