稲佐神社 佐賀県杵島郡白石町大字辺田字辺田

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白石町の神社

こちらの稲佐神社は、JR長崎本線肥前竜王駅の北東およそ3.5kmの距離、佐賀県杵島郡白石町大字辺田地区の集落西側に鎮座されます。

国道207号線白石農協会館前交差点を西へ行き、突き当った県道268号白石大町線を左折して南に2kmほどにある稲佐神社入口交差点から西に入った稲佐山の山裾に位置します。

享保6年建立の鐘楼と時を同じくして建立された楼門、佐賀県最古の肥前鳥居を含む5基の鳥居と、自然石が敷き詰められた300mほど続く石畳の参道が印象的な神社です。

石段参道入口に立つ鳥居。貫も柱も三本継ぎなのですが、島木と笠木が一体ではなく分かれはじめたころに製作された進化型の肥前鳥居です。

「正一位稲佐神社」の神額が掛かります。じつはこの鳥居は二の鳥居で、一の鳥居はここから1kmほど東の高町郵便局付近に建立されています。

石段参道の途中に立つ三の台輪鳥居。

「稲佐大明神」の神額が掛かります。

案内板。

かつてこの一帯は「稲佐山泰平寺」と呼ばれと伝えられており、稲佐神社の石段参道の両脇には八坊ずつ十六坊の真言宗の寺院があったそうです。

泰平寺を開いたのは弘法大師(空海)であると伝えられていて、十六坊のうち現存しているのは玉泉坊・観音院・座主坊の三坊を残すのみとなっています。

稲佐神社御由緒略記
 古来、杵島郡の東部白石諸郷の鎮守にして、杵島山中の一峰稲佐山の中腹にあり、往古は同山南の尾向横平山に在しと傅ふが鎮座年代久遠にして之を詳にせず。
 社伝に曰く、鎮座大神は天地剖判の時、天降りまして、国家を造立し給ひし天神及び五十猛命の神霊にして、五十猛神がこの山に樹木の種をまいて繁茂させ、「木の山」と呼ばれたと云う。
 後世推古天皇の御宇、百済国の王子阿佐来朝し此地に到り、其の景勝を愛し居と定め、父聖明王並びに同妃の廟を建て、稲佐の神とともに尊崇せり。 其の後、里人阿佐の霊を合祀して稲佐三社と云えり。
大同年中(806~)釈氏空海、神託を蒙りて当山を再興し稲佐泰平寺と名付けた、又、推古天皇十五年聖徳太子の命を奉し、大連秦河勝、当国を巡察し、田畑を開拓すること、十萬、大いに稲佐神社を尊崇す、聖徳太子は聖明王の佛教伝来の功を追誉せられ、河勝に命じて同親子の霊を稲佐神社に合祀せしめ、大明神の尊号を授けられたりと云う。
後稲佐大明神参道には真言十六坊が建立神宮寺が成立以来仏教守護の神として信仰を集むるに至る。
 貞観三年(861)従五以下、仁和元年(885)従五位上を授け賜う事、三代実録に見ゆ。
 文治三年(1187)白石五郎道益、白石郷の地頭職に就きたるや、大いに稲佐神を尊崇し その荒廃せるを憂い、源頼朝にその再興を請い、翌年造営完成す。 社人社僧を置き、武人をして流鏑馬式を行はしむる。(例祭の神事として今日に至る)の報せをうけた道秦は稲佐大明神を尊崇し、白石六郎道秦に到りては、蒙古襲来(文永の役1276・弘安の役1281)の報せを受けた道秦は稲佐大明神の御前に武運長久を祈祷し出陣、元軍撃退の功勲顕著なり(蒙古襲来絵詩の描かる)と亀山上皇より社領を加へられ、神恩に報いたり。
 後、竜造寺・鍋島の領となり、歴代藩主も大神を尊崇し、山林の寄進・寺録の支給・神域の復古などをなし、神徳益々発揚し、この白石郷の宗廟として崇敬を集めることとなる。

御祭神 天神 女神 五十猛命、大屋津姫命 聖王神 聖王神后 阿佐太子

五の台輪鳥居。

残念ながら神額は読み取ることができませんでした。

石段参道右側に建つ享保6年(1721年)建立の鐘楼。

享保6年(1721年)建立の楼門。

楼門から見た参道の様子。

境内側から見た楼門。

一年に二度、春分と秋分に見られるという楼門の中に登る朝日が美しい。

社務所。

唐破風付き入母屋造りの拝殿。

「文化二年乙丑三月吉日」建立の刻銘が入る塩田型狛犬。

向拝下の様子。

天満宮。

忠霊神社。

稲荷神社。

御神木。

社殿の様子。

神庫でしょうか?

御神木。

八幡神社。

拝殿の様子と本殿。

白石氏の記念碑。

それでは今日も最後までご覧いただきありがとうございました。

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