こちらの生立ヶ里(うりゅうがり)八幡神社はJR長崎本線牛津駅の北東およそ2kmの距離、佐賀県小城市牛津町乙柳生立ヶ里地区に鎮座されます。
国道34号線の「牛津町上柿樋瀬」交差点から北へ、田圃の中を小城町方面へと向かう道路を約600m、道路右側に広がる生立ヶ里集落の南の外れに位置しています。
牛津の砥川地区が肥前石工発祥の地ということもあり、小城市には多くの肥前鳥居が見られますが、こちらにも小城市重要文化財の肥前鳥居があるということで参拝させていただきました。
田圃に変わってしまったのか参道は無く、境内へは神社の裏側から民家の間の路地を抜けて回り込む形になります。境内入口に、小型ではありますがその肥前鳥居が奉納されており、慶長十七年に造立されたにも関わらず未だ堂々としたその立ち姿には、やはり惚れ惚れとしてしまいます。
境内には瓦葺き入母屋造りの拝殿と流造の本殿覆屋が建立され、ほかに正一位稲荷神社や合祀によって集められた石祠が祭祀されています。御祭神は品陀和気命(応神天皇)と思われますが、由緒沿革等については不明です。鳥居に掛かる「八幡大菩薩」の神額に神仏習合の名残を残しています。
この堂々たる立ち姿はまさに初期型の肥前鳥居に間違いありません。
その証拠に、裾広がりの柱には慶長十七(1612)年建立の刻銘が入っているとのことでしたが、残念ながら笹が巻かれていたので確認することはできませんでした。
肥前鳥居に掛かるのは「八幡大菩薩」の神額。
八幡宮(はちまんぐう)は八幡神(はちまんしん)を祭神とする神社で、八幡神社、八幡社、八幡さまとも呼ばれ、大分県宇佐市の宇佐神宮を総本社として全国に約44,000社あるとされます。
八幡神は、誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれる応神天皇で、清和源氏や桓武平氏などの武家から武運の神「弓矢八幡」として崇敬を集めており、早くから神仏習合が進められたことで八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称されて、神社内には神宮寺と呼ばれる仏教寺院や仏堂が作られたということです。
おそらくこの肥前鳥居に掛かる「八幡大菩薩」の神額もその神仏習合の名残なのでしょう。
瓦葺き入母屋造りの拝殿。
御祭神は応神天皇と思われ、そのご利益は勝利祈願、出世開運、子育大願、縁結び、武勇長久といわれています。
肥前鳥居の横に掲げられた案内板。
生立ヶ里八幡神社の肥前鳥居は慶長十七(1612)年に建てられたものである。この肥前鳥居を建立したのは持永助左衛門茂盛である。持永氏は南北朝時代に下向した九州探題・今川了俊に繋がる家系であり、茂盛自身は鍋島直茂の隠居付八十三士の一人で後に小城鍋島藩初代鍋島藩主鍋島元茂の家来となった。
この肥前鳥居は柱が二本継ぎ、笠木・島木は一体化し、貫とともに三本継ぎの構造となっている。様式的には背が低く、直線的で厚みのある笠木・島木部分と貫の間は狭い。柱は太くて短く、重量感がある。
「肥前石工の発祥地」である小城市牛津町にとってこの肥前鳥居は代表的石造物と位置付けられ、砥川石工の研究を進めるうえでは貴重な文化財である。
流造の本殿。
正一位稲荷神社。
末社群。
末社群。「八大龍王」「大神宮」「猿田彦大神」「庚申塔」。
境内の様子。
ご神木。
今回の肥前鳥居もまさに芸術品といえる素晴らしいものでした。
大きさはそれほどでもないのですが、どっしりとした重量感があり荘厳な感じが何とも言えず本当に美しい鳥居です。
ただ、これはあくまでも個人的な主観ですが、初期型の肥前鳥居はどうも小型のものが多いように感じます。やはり昔の人の身長は低かったのかな…と思ったりw
ただ、集落のはずれに民家に挟まれるような場所に鎮座されているため、近郊の新興住宅に住まわれている人の中には、この古社の存在を認識していない人も多いのではないかと思いました。
それでは今日も最後までご覧いただきありがとうございました。
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