松山神社 佐賀県鹿島市大字三河内大木庭

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鹿島市の神社

こちらの松山神社はJR長崎本線肥前鹿島駅の南西およそ4.2kmの距離、佐賀県鹿島市大字三河内大木庭地区に鎮座されます。

鹿島市内の西側を通る国道207号線バイパスの「辻」交差点から西に、長崎県大村市へと向かう国道444号線を道なりに2.8kmほどにある、木庭川に架かる大木庭橋を渡った蟻尾山の南の裾野付近に広がる大木庭集落の西の外れに位置します。

川岸の路地から北に延びる参道入口には肥前鳥居が奉納されており、綺麗に刈りこまれた生垣の参道を進んだ先に架設されている神橋を渡ると、明治生まれの塩田型の狛犬が守護する入母屋造りの拝殿と本殿が建立されています。

地元の人からは「松山権現さん」と呼ばれるこの社の創建は古く、由緒書きによると創建は第五十一代平城天皇の御代(大同元年)に紀州の熊野神社の分霊を勧進したといわれ、元禄九年に鹿島鍋島半第四代藩主鍋島直條公により再建され現在に至るといいます。

御祭神には伊弉諾尊、伊弉冉尊、天照坐皇大御神、豊受大神、金比羅大権現、星神、の六柱が祀られております。

参道入口に立つ肥前鳥居。

肥前鳥居には「松山社」の神額が掛かる。

社頭。

瓦葺き入母屋造りの社殿。

参道入口に架設されているのは単径間桁橋の石造り神橋です。

そして蹲踞の狛犬さん。

明治27年(1894年)3月生まれの塩田型の狛犬さんです。

拝殿の中の様子。

鎮座地 佐賀県鹿島市大字三河内乙三一七番地ーロ
御社名 松山神社
御祭神 伊弉諾尊 伊弉冉尊 天照坐皇大御神 豊受大神 金比羅大権現 星神
由緒 第五十一代平城天皇の御代(大同元年九月 八〇六)紀州の熊野神社の御分霊を能美の庄木庭村の奇巖絶佳の地に勧請してこの地の氏神とされた。その後第七〇代後冷泉天皇の御代(天喜三年(一〇五五)この地方の地頭「散佐大蔵朝臣永明」が神殿を建立して祭祀を行う。
当時は浮屠氏の勢力が強く、当地方はその管掌される所とされる。爾来幾多の盛衰を経て、文明九年(一四七八)千葉勢と大村勢との合戦により社殿は焼失した。元禄九年(一六九七)鹿島鍋島半第四代藩主鍋島直條公により再建された。以降藩主の尊崇厚く、毎年十月九日を例祭日と定めて祭祀行われ現在に至っている。
当神社は一般的に松山権現さんと称されて親しく尊崇されてきたが、権現さんとしょうされている神社は全国に多くあるが、これは奈良時代以降佛教が神様として現れて衆生を救済守護する、という考へがあって権現さんと称するようになった。これは、即ち「本地垂迹説」と云われている。
神殿前の天井には龍の絵が画かれている、年代は不詳、絵師は田中崇栄とされ、この地方の田中家のご先祖様と思われる。拝殿は腐朽したので昭和二十三年に改築されている。
境内入口の鳥居は、肥前鳥居はの立派なものである。額には「松山社」とあり、右の柱には「大日本鎮西肥之州藤津花木庭村」とあり、その他は判読不能である。境内には石碑が数基あり、その中の一基には光明真言碑(願主、大木庭、三十石、高泉幸村)寛保二壬戌八月吉日良辰(一七四二年)、豊倉大神は、寛政八辰年(一七九六年)霜月吉日、裏山には、天保年間の建立の金比羅大権現の石祠がある。神前の狛犬一対は、明治三十七年三月建立(石工、永石友三)とある。神殿内部の横木に、「文政十三年寅六月十日瓦葺替、天保二年卯八月十二日ふきかえ、の墨書銘がある。
又、境内東入口の石橋は、本格的な「リブアーチ」式の眼鏡橋でこの技術は中国で独自に発達したもので本土では数例あり、大変珍しい希少な奉例であるとされる。何時、誰が築いたか不詳である。以上。

拝殿内の案内板より

入母屋造りの本殿。

石祠群。

東参道の神橋。こちらはリブアーチ式の眼鏡橋で、歴史的にも貴重な建造物とされているようです。

そしてその東参道の神橋の近くには一体だけ狛犬が安置されていて、なんとなく物悲しい雰囲気を醸し出していましたw

山間にある神社はやっぱり寂しさを感じてしまいますよね。

それでは今日も最後までお読みいただきありがとうございました。

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