こちらの波多八幡神社は、唐津市立北波多小学校の南方1.5kmほどの佐賀県唐津市北波多稗田地区の町はずれに鎮座されております。
国道202号線徳須恵上の交差点を東に、県道52号山本波多津線の徳須恵川にかかる徳須恵橋を渡り、200mほど先を右に入ってしばらく道なりに進んで行き、住宅地を抜けるとすぐに眼前に豊かな田園風景が広がってきます。
その田畑を切り裂くように真っすぐに伸びる道路を進むと、やがて左前方の山肌に石垣があるのがくっきりと見えてきます。
道路の右手には一の鳥居があり、その鳥居脇には二つの末社が祀られております。野鳥の囀る声だけが響き渡る閑静な古社でした。
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社殿とは道路を隔てて立つ一の鳥居。
公園になっているのでしょう、芝が植えられた広場には子どもたちの遊具がありました。
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鳥居に掛けられた「波多八幡宮」の神額。
昭和26年5月建立の鳥居。
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社務所。
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一の鳥居脇の神明鳥居。
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末社。
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こちらが北波多村招霊殿でしょうか。
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「幸霊神社」の神額が掛かります。
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御神体。
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一の鳥居側の遠景。
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境内入口の石垣に掛かる案内板。
鎮座地 佐賀県唐津市北波多稗田2155
御祭神 息長帯姫尊 品陀和気命 武内宿禰命
相 殿 葛原親皇命 菅原道真
境内社 波多大明神 北波多村招霊殿 猿田彦神御由緒 当社の社伝によれば人皇第六十六代一条天皇の正暦元年(九九〇年)源頼光は肥前
境内入口の案内板より
守に任ぜられて当国に西下した時に、その家臣四天王の一人豪将渡辺源吾綱も之に
従って下向して、松浦の地に入って禅田村に居館を構えた。この時渡辺源吾綱は京
都の石清水八幡宮の御分霊を当地に勧請して当社を鎮守神とし、小祠を創建して封
地家門の永昌を祈願したのが当社の起源と伝えられている。その後平安朝末期渡辺
源吾綱の曽孫波多源次郎持が岸岳城を築城し、それに拠ってからは更に当社に対し
ての尊崇も極めて厚く社領二百五十石を寄進し岸岳城の祈願所と定めた。
爾来四百五十年間波多氏十七代にわたり崇敬の誠をつくし奉仕したが、人皇第百七
代後陽成天皇の文禄三年(一五九四年)、第十七代上松浦党領主波多三河守親公は時
の関白豊臣秀吉の怒りにふれ(矛盾した改易理由)文禄三年(一五九四年)二月所領没
収の上流罪に処すとの命令を受け、身柄は徳川家康に預けられ常陸国(茨城県)筑波
山麓に流罪となった。従って一族家臣等も離散して終い、四百五十年間上松浦地方
に君臨した松浦党の領袖波多氏は第十七代波多三河守親公で滅亡した。
当社の社領も没収され社運も衰微したものの如くであった。しかし郷民の崇敬心は
この事実に屈することなく、敬神の念は聊も変らず、爾来子々孫々相承けて産土神
(氏神)と仰いで尊崇し、地名に因んで波多八幡神社と号した。
明治四年(一八七一年)社格の制定に際しその顕著なことにより村社に列せられ更に
明治十八年(一八八五年)郷社に昇格、大正元年(一九一二年)幣帛供進の指定を受け
た。尚明治四年(一八七一年)明治維新の官制が改まり、神祇省が設置され、祭祀令
の発布と共に神社統合令により相殿に葛原親皇命、菅原道真公を合祀された。昭和
五十四年(一九七九年)が当社創始より壱千年の式年に当り、鎮奉壱千年式年祭と波
多氏一族の慰霊大祭を盛大に斉行された。我等郷民氏子はかく由緒ある当社の歴史
に鑑み、祖先の道統を伝えんと念願するものである。
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案内板にあった境内社の「猿田彦神」は境内入口右側にありました。
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石段参道前に立つ二の鳥居。
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鳥居には「八幡宮」の神額が掛かる。
鳥居の柱からは宝暦4年(1754年)2月建立の刻銘を読み取ることができます。
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鳥居前の手水舎。
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まだまだ石段参道が続きます。
参道途中にある石祠群。天照皇大神宮(画像左)。
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三の鳥居。
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三の鳥居に掛かるのは「天神社」の神額です。
文政10年(1827年)2月の建立です。
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はい、これが最後の石段です。
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拝殿。
そして拝殿前の狛犬さんです。
明治27年(1894年)2月15日建立の狛犬さんには、「小城郡栗原ヶ里 石工 江頭重三」の刻銘が入っておりました。
「栗原ヶ里」は現在の小城町栗原地区だと思われます。小城市の西端で多久市との市境にあたるわけですが、旧東松浦郡でもこの辺りは値賀砥川ではなく石工が出向いていたということなのでしょうね。
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拝殿前の様子。
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拝殿の中の様子。
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本殿と幣殿。
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本殿。しっかりと錠前が掛けられています。
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境内の中にも案内板が立っております。
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境内の手水舎。
御神木。
北波多は佐賀県東松浦郡の北西に位置していた村でしたが、平成17年(2005年)1月1日に唐津市と東松浦郡の計8市町村(玄海町と七山村を除く)が合併し、唐津市の一部となりました。
拝殿前の狛犬が小城市の石工によるものだったことは、私にとってはとても興味深いものでした。
単に伝手を頼って依頼しただけかもしれませんが、北波多が伊万里市と隣接していたことに起因するのかもしれないなどと一人考えたりもしていますw
ただ、肥前石工についてはもっともっと詳しく掘り下げていく価値があるようです。
それでは今日も最後までご覧いただきありがとうございました。
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