こちらの多久神社はJR唐津線多久駅の南およそ4kmの距離、佐賀県多久市多久町西の原地区に鎮座されます。
国道203号線「荕原(あざみばる)」交差点から南に県道24号武雄多久線を道なりに進み、県道25号多久若木線と交差する「市立病院前」交差点を直進し、突き当たりを右に曲がって200mほどにある多久市の桜の名所、「西渓公園」の西隣に位置します。
参道入口から三基の鳥居が建立され、境内には砥川型の岩乗り狛犬が守護する入母屋造りの拝殿と本殿が建立されています。龍造寺から多久姓に改めた多久安順をはじめ、龍造寺家兼、龍造寺長信、多久茂族、多久茂文といった旧藩主が祭祀されます。
すぐ東隣には若宮八幡宮が鎮座しているので、同じ境内の中に二社あるような錯覚を覚えますが、しっとりとした静けさが染み入るような古社です。
参道入口の一の鳥居。神額はありません。
二の鳥居。
神橋を渡った先に奉納された三の鳥居。
この鳥居は両部鳥居(四脚鳥居)と呼ばれるもので、神仏習合の神社にしか見られない大変珍しいものなんだそうです。
境内入口に流れる小川に架けられた神橋。
鳥居横にはその小川の源である神池があります。
元亀元年(一五七〇)龍造寺長信は梶峯城に入城。嫡子安順から、多久姓に改めて、その子孫は明治初年まで多久を領有しました。
境内入口の案内板より
弘化元年(一八四四)十一代領主茂族は、長信の居住した通称天理様御屋敷と呼ばれるこの地に、先祖への報恩と子孫の繁栄を願い、始祖龍造寺家兼と長信、多久安順を祭神として、梶峯神社を創建し、宗廟としました。明治十八年に茂族、大正五年に四代茂文を合祀。
昭和二十六年、西南の役以後の戦没者を加えて、多久神社と改めました。
拝殿絵馬のうち「松浦捕鯨図」は生業記録として貴重です。
境内には、三条実美の表題、鶴田斗南の撰文、中林梧竹の筆による「従五位多久茂族碑」や、儒者で教育者の草場船山の詩文を刻んだ手水鉢があります。
広場南側には、明治刑法の草案者鶴田斗南の碑や、佐野常民表題による多久安典の碑などもあります。
石段参道を上がると境内入口の左右に手水舎があります。
自然石を彫り込んで造られた手水鉢。
唐破風付き入母屋造りの拝殿。
砥川型の岩乗り狛犬は厳めしい恐竜型です。
驚くことに、多久神社で検索するとまったく同じ名前の神社がもう一つありました。
京都府京丹後市峰山町丹波小字涌田山にある神社も多久神社と言うそうですが、なにか関係があるのかと思いましたがどうやらそうした所縁はないようです。
向拝下の様子。
拝殿の中の様子。
入母屋造りの本殿。
第十一代多久邑主の多久茂族碑。
末社の八坂神社。
後ろから撮影した御堂。
神庫。
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