こちらは、山間に鎮座されているある神社の近くにあるのをグーグルマップで知り、せっかくだからとスマホのGPSを頼りに山の中の道なき道を歩きまわり、最後は急な山肌を登り上がったところに鎮座されていました。
この日は、マーちゃんは趣味の教室があり私一人だけで行ったのでこんな冒険ができました。もしマーちゃんが一緒だったらおそらくこの冒険を許可してもらうことはなかったと思います。
ただ、山を下るときにはもっと楽に行ける道があったのを知り、一人で大笑いをしたのはマーちゃんにはナイショですw
GPSが指し示す場所を目指して木の枝などを頼りに急な斜面を登ると、ちょっと開けた場所にたどり着きました。その先の方に目をやると石祠が三基並んでいるのが見えます。
その石祠の方に進んで行くと、その石祠の前には湧き水が湧いているのか水溜まりがあるのですが、何となく温泉水のようなコバルトブルーで神秘的な感じですw
近づいていくと、なんといちばん右側の石祠の前には見覚えのあるあのシルエットが!
間違いありません!やっぱり肥前狛犬ちゃんです!
「肥前狛犬は誰も行かないような山間の祠にいるのでは?」と考えていたので、何となくその期待はあったのですが予感が的中して嬉しくて堪りませんw
これで、危険な山道を一人で登ってきた甲斐があったというもので、疲れなんて吹っ飛んでしまうというものです。
こちらは多久市の資料によると、御祭神は熊野権現とされています。
阿形の首の部分にはヒビが入っており、吽形に比べ風化が進んでいるように見えます。できるならば欠落する前に何らかの手当てができればいいのですが…
四角い顔の吽形の頭頂部に角があるのが確認できますね。逆に阿形の顔は顎が丸いようですが、これは風化のせいなのかもしれませんね。
安置されたのがいつなのかは知る由もありませんが、こんな山の中でずっと役目を果たして来た肥前狛犬ちゃんのけなげな姿にはやっぱり気持ちが移っちゃいます。
上宮は明治四十年(一九〇七)五月に火災に遭っている。
多久市民俗歴史資料館発行の「多久の肥前狛犬」より抜粋
この上宮の石祠に奉納されている肥前狛犬は、この火災のために阿吽像とも損傷し、阿像は頭部と胸部、胴部の三つに割れて、吽像も背から背から頚部にかけて二つに割れている。向かって右に阿像、左に吽像を配置し、阿像が一回り小さい。
阿像は頭部が小さく尖り、一角の名残りを留めている。耳は内耳を前に向け、たて髪は素毛であるが毛髪の表現はない。眉は目の上に連弧状の沈線を日本彫っている。目は杏仁形の浮彫である。頬に日本の沈線で皺を表している。目の上に彫られた日本の弧線の下の沈線を延長して鼻の輪郭とし、眉と鼻がつながっている。口は幅広の横線を彫り開口している。前肢と後肢は浅彫りで連結している。前肢は足先をやや後に引き、前のめりの体勢である。前肢間は脚の大きさより狭い。脚の中央部が幅広となり節を造り出し、足先には段をつけて前に出し指を表現している。背稜は鎬をたてている。尾は幅が広い剣葉状である。
市内の肥前狛犬は阿像が吽像より大きいのが一般的であるがここでは吽像が阿像よりも一回り大きい。吽像も盗聴が尖り角の名残りであろう。その後の後頭部に瘤状の突起を持ち、その下の背にも同様の突起を一個造っている。小さな耳は内耳が前を向いている。たて髪は素毛で頭部にくびれを造って背と区分している。眉は面の端から端まで二本の曲線を彫って表している。杏仁形の目の回りを掘り窪め、眼球を浮き彫りしている。三角形の大きな鼻かぶらを持つ鼻は阿像の鼻より高く、鼻孔は浅く穿孔している。口は細い横線で閉口を表している。前肢と後肢は浅彫りで連結している。前肢間は浅いが、やや深めに掘っている。二本の脚はほぼ中央部でやや膨らみを持ち節を造っている。足先には指を造り出している。背は上部の瘤状の突起から鎬をたてている。尾は突起状になっている。
この神社に遺された石造物は江戸時代前期と、明治以降の二つのグループからなり、この狛犬が製作されたのは古い古いグループに属する十七世紀前半と見ている。
「英彦神社」。
平成23年10月1日発行の「多久の肥前狛犬」の画像を見ると、肥前狛犬はこちらの石祠の前に奉納してありました。
どうやら、それ以降に誰かの手によって現在の場所に移動されたものと思われます。
こちらは何なのか分かりませんでした。
さて、今回は年寄りの冷や水でちょっと危険なことをしてしまいましたが、期待通りに肥前狛犬と巡り合うことができました。
これまでも期待しながら行ったのに何にもなかったということはたくさんありましたが、これはしょうがないことかもしれませんね。これを繰り返すことで思わぬ出会いがあると思ってますから…
それでは今日も最後までご覧いただきありがとうございました。
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