こちらの吉村天満宮はJR長崎本線肥前白石駅の南西に2kmほど、国道207号線沿いの白石町立白石中学校の西に広がる田圃の中の集落、佐賀県杵島郡白石町大字廿治吉村地区の中央部に鎮座されます。
参道入口には天明四年の刻銘が入る鳥居が建立され、境内には明治生まれの塩田型狛犬が守護する開放的な入母屋造りの拝殿と流造の本殿が建立されています。
案内によると創建は不明ですが、天正2年に旧小城郡大串村の郷士大串太郎右衛門が、龍造寺隆信の須古城攻めに加わったものの負け戦となりこちらの天満宮に逃げ込んだことで助かった。神の助けに感謝した太郎右衛門は姓を「吉村」に、家紋を「鱗形剣菱」から「梅鉢」に改めて天満宮を再建したとあります。

参道入口に立つ台輪鳥居。
左の柱には「天明四辰年 三月吉祥日 村中 當社務 白石因幡守 藤原盛利」の刻銘が入ります。


境内の様子。

瓦葺き入母屋造りの拝殿。
そして拝殿前で守護するのは阿吽で作風が異なる塩田型の岩乗り狛犬でした。
しかし、よく見ると顔の表情など阿吽で作風が違っているように思えます。
左の狛犬は立ち上がった姿勢で前立岩に前肢を掛けていますが、一方の右の狛犬は前立岩に前肢を掛けて座り岩と身体の間が刳り抜かれていません。
違和感の原因は作風だけではなく、狛犬の配置が向かって左側に阿形、右側に吽形が配置されていて通常とは逆に配置されているためでした。
阿形の台座には「明治丗九年 八月廿五日」とありますが、吽形の台座には「明治三十三年 八月廿五日吉日」と彫られており、やはり阿吽の狛犬は製作者も年代も違うようです。

拝殿の中の様子。
銅板葺きの流造の本殿。

吉村天満宮
所在地 杵島郡白石町大字廿治三〇四〇
祭神 主神 菅原道真 合祀 外五神御霊
御由緒
吉村地区は、今から一〇〇〇年程前にすでに有明海の海退によって陸地化し、耕作がなされていたものと推定される。
居民は菅原道真公の学徳を慕って大宰府の宮に参詣し、国土安穏と五穀豊穣を祈ること数十年、その霊験に居民の信仰はいよいよ高まり、遂に吉村の地に小祠を建てて菅公を祀るに至った。
世は戦国の時代となり、当地域も戦やまず、天正二年(一五七四)大串太郎右衛門という者、竜造寺隆信の為に須古の平井経治と戦い、敗れ追われて一心に神を念じ、その危難をこの社の厨子に潜んで避けた。時に敵兵が追いかけて来て神殿の扉を蹴破り中を探すと、入口は蜘蛛の巣がはりめぐり、中から鳩が飛び出た。これを見て社殿を深く詮索せずに去ったため一命を助かったという。後、太郎右衛門はこれ神助であると感謝し、この天満宮の堂を再建し、以後は「大串」の姓を「吉村」にかえ、家紋の「鱗形剣菱」を「梅鉢」に改め住居辺田村(今の白石町錦江地区)の居屋敷に天満宮を勧請し守護神として祀った。吉村近郷の者は、その霊験に尊信厚く、天明四年(一七八四)吉村中の建立による鳥居も現存する。佐賀藩主鍋島勝茂からも社領等の寄進があっている。(後略)

石仏。

石祠群。

嬉野茶の基礎を築いたとされる「吉村新兵衛ゆかりの地」の石碑。
由緒を読んでいますと、なんだかその時代に引き込まれていきそうな気分になりました。神社の由緒書きはそれぞれですが、その成り立ちはどこの神社も興味深いものです。
それでは今日も最後までご覧いただきありがとうございました。
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