こちらの吉村天満宮はJR長崎本線肥前白石駅の南西およそ2kmの距離、佐賀県杵島郡白石町廿治吉村地区の集落の中央部に鎮座されます。
国道207号線沿いの大井バス停付近から西へ、田圃の中を通る道路を県道214号白石大町線に向かい、踏切を渡り800mほども場所にある「吉村」の案内板が立つ四つ角を右折し、そこから北へ200m進んだ町なかに位置します。
参道入口には天明4年建立の鳥居が立ち、明治生まれの塩田型狛犬が守護する開放的な入母屋造りの拝殿と流造の本殿が建立されています。
参道入口に立つ台輪鳥居。左の柱には「天明四辰年 三月吉祥日 村中 當社務 白石因幡守 藤原盛利」の刻銘が入る。
境内の様子。
瓦葺き入母屋造りの拝殿。
そして塩田型の岩乗り狛犬が居ました。
こちらの岩狛さんですが、阿吽にどこか違和感があると感じていたのですが、向かって左側に阿形、そして右側に吽形が配置されています。
阿は立ち上がったまま前立岩に前肢を掛けておりますが、一方の吽の方は前立岩に前肢を掛けて座っています。
台座を見てみると、阿形の台座には「明治丗九年 八月廿五日」とあります。
一方の吽形の台座を見ると「明治三十三年 八月廿五日吉日」と彫られており、どうやら阿吽が製作された年代と製作者は違うように思えます。
拝殿の中の様子。
銅板葺きの流造の本殿。
御祭神 主神 菅原道真 合祀 外五神御霊
案内板より
御由緒
吉村地区は、今から1000年程前にすでに有明海の海退によって陸地化し、耕作がなされていたものと推定される。
居民は菅原道真公の学徳を慕って大宰府の宮に参詣し、国土安穏と五穀豊穣を祈ること数十年、その霊験に居民の信仰はいよいよ高まり、遂に吉村の地に小祠を建てて菅公を祀るに至った。
世は戦国の時代となり、当地域も戦やまず、天正二年(一五七四)大串太郎右衛門という者、竜造寺隆信の為に須古の平井経治と戦い、敗れ追われて一心に神を念じ、その危難をこの社の厨子に潜んで避けた。時に敵兵が追いかけて来て神殿の扉を蹴破り中を探すと、入口は蜘蛛の巣がはりめぐり、中から鳩が飛び出た。これを見て社殿を深く詮索せずに去ったため一命を助かったという。後、太郎右衛門はこれ神助であると感謝し、この天満宮の堂を再建し、以後は「大串」の姓を「吉村」にかえ、家紋の「鱗形剣菱」を「梅鉢」に改め住居辺田村(今の白石町錦江地区)の居屋敷に天満宮を勧請し守護神として祀った。吉村近郷の者は、その霊験に尊信厚く、天明四年(一七八四)吉村中の建立による鳥居も現存する。佐賀藩主鍋島勝茂からも社領等の寄進があっている。(後略)
石祠。
石祠群。
嬉野茶の基礎を築いたとされる「吉村新兵衛ゆかりの地」の石碑。
由緒を読んでいますと、なんだかその時代に引き込まれていきそうな気分になりました。神社の由緒書きはそれぞれですが、その成り立ちはどこの神社も興味深いものです。
それでは今日も最後までご覧いただきありがとうございました。
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