こちらの天満宮は、JR唐津線山本駅の南西に5kmほどの距離、佐賀県唐津市北波多行合野地区の南端に鎮座されます。
国道202号線と徳須恵川に挟まれた田畑の中を、鎮守の森に向かって参道が北から南へ一直線に伸びており、神社の入口に建立された3基の鳥居をくぐると、静寂な空間に包まれた境内の中に社殿が建立されています。
長崎県の平戸市へ行った日の帰り道、佐賀県唐津市北波多行合野を通りかかったときに右手に鎮守の森らしきものが見えたので思わずウインカーを出して車を停めて参拝させていただきました。
あとで調べてみたら「行合野天満宮」だということが分かりました。こちらの天井絵は唐津市指定の重要文化財だということです。
社頭。
神社入口には幟立石、石灯篭、そして一の鳥居が建立されています。それにしても鳥居の高さが低いです。
これはひょっとして埋もれてしまったのでしょうか。それとも、幅も狭いので最初からこうした造りなのでしょうか。
「天満宮」の神額が掛かります。
柱には「天明八歳」の刻銘が入ります。
そして二の台輪鳥居。
こちらも小型です。
二の鳥居には「天満神社」の神額が掛かります。柱には「天保(1830年~1844年)」の年号が刻まれているのが分かります。
さて、いよいよ境内が見えてまいりました。
参道の苔むした敷石が、いい感じに厳かな雰囲気を醸し出しています。
三の台輪鳥居。
こちらの鳥居にも「天満神社」の神額が掛かっており、柱に刻まれた「天保七歳在丙申九月」の刻銘がはっきりと確認できます。
おそらく明治の神社合祀によって、この地区にあった天満神社二社がこちらの行合野天満宮に合祀されたものかと思われます。
境内入口で迎えてくれた明治29年生まれの灯篭狛犬。
こちらは合祀された天満神社に奉納されていた狛犬灯篭なのでしょうか、阿形の一体だけがありました。
おそらく吽形の灯篭は遷座の際に倒壊してしまったのかもしれませんね。
拝殿。切妻造り妻入りで、切妻破風の向拝が設けられています。
こちらの天井絵は唐津市指定の重要文化財になっているようですが、残念ながら見ることができませんでした。
瓦葺き流造の本殿。
案内板がないので由緒等は分かりませんが、祭神は菅原道真公と思われます。
天満宮とは
概説
天満宮は「天神」「天神さま」「天神さん」とも呼ばれる。社名は、天満神社、祭神の生前の名前から菅原神社、天神を祀ることから天神社などとなっていることもあり、また、鎮座地の地名を冠していることもある。由緒
宇多天皇の寵愛を受け異例の出世を遂げた菅原道真公は、多くの貴族達の嫉妬と反発を買ってしまい、時のライバルであった藤原時平の陰謀により九州の太宰府に左遷されてしまう。
無実でありながら罠に嵌められ、反逆罪として左遷された道真公は粗末な小屋で衣食にも困る劣悪な生活を強いられました。
まるで犯罪者のようなひどい扱いを受け、4人の子どもも流刑という手酷い仕打ちを受けたのです。
筆舌に尽くしがたい日々を過ごした道真公は太宰府に赴いてから約2年後に死去します。ところが道真公が亡くなった直後、道真公を陥れ、子ども達も流刑にした藤原時平を始め加担した貴族達が次々と謎の死を遂げていったのです。
そして、洪水・長雨・干ばつ・伝染病など次々と天変地異が起こり、都の人々は「道真公の祟りだ」と恐れるようになりました。
醍醐天皇はその出来事に慄き、左遷の証拠となる文書を燃やすなど画策に走ったが時すでに遅し。とうとう、宮中に雷が落ち多くの人が焼死。それをきっかけに体調を崩して醍醐天皇も亡くなってしまったのです。こうしたことから当初、道真公は雷を操る雷神として祀られました。
日本の農民の間では、古くから雷が稲の豊かな実りをもたらすという信仰があり、雷を神として祀っていたため雷神である道真公を祀るようになりました。農村部に天満宮が多いのはそのためです。
また山間部に天満宮が多いのは、落雷で家や家財を無くすことがないよう雷神である道真公を祀ったことに始まります。時が移り怨霊の記憶が薄れていくとともに、また太平の世になるにつれ、道真公が優れた学者であったことから「学問の神様」とされるようになりました。
御堂。
お堂の中の様子。
境内の様子。
御神木。
高度成長期以降、首都圏では鎮守の森の伐採が進んだと言われていますが、田舎ではまだまだこうした風景が各所に残っています。
こちらの行合野天満宮も、地域の皆さんからずっと愛されてきた神社なんだと思いますが、これからもずっと引き継がれていくことを願わずにはいられませんでした。
今日も最後までお読みいただきありがとうございました。
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