こちらの千栗八幡宮は、JR長崎本線中原駅の南東およそ3.5kmほど、佐賀県三養基郡みやき町大字白壁千栗地区の街中の小高い山の上に鎮座されております。
国道34号線の白石東交差点から町道を南におよそ800mほどのなだらかな坂を下って、坂の途中から東の「佐賀カントリー倶楽部」方面へと向かい、そこからおよそ2kmほど行った「千栗」交差点を東へ600mほどの場所に位置します。
神社入口には堂々たる一の肥前鳥居が建立され、鳥居をくぐった先には長く急な石段参道が境内へと続き、上がった先の境内には立派な入母屋造りの拝殿と本殿が建立され、拝殿内には安土桃山時代に製作された肥前狛犬が安置されています。
じつは、この石段こそバルセロナとアトランタオリンピックで金メダルを獲得し、平成の三四郎と呼ばれた柔道家、故古賀稔彦氏が少年時代から足腰を鍛えるために上り下りを繰り返した石段で、現在では「栄光への石段」と呼ばれています。
御祭神は應神天皇、仲哀天皇、神功皇后、難波皇子、宇治皇子、住吉明神、武内宿禰の七神。境内社に宮地嶽神社、武雄神社、鳩森稲荷神社の三社が祀られています。
社頭。
石段参道前の一の肥前鳥居。
鳥居に掛かるのは「正八幡一宮」の神額。
そして狛犬さん。
文化5年(1808年)8月生まれのみやき型の狛犬です。
垂れ耳でペタリと座り込むような蹲踞型の狛犬さん、これはみやき型狛犬の特徴とでもいえるかもしれませんねw
案内板。
御祭神 應神天皇、仲哀天皇、神功皇后、難波皇子、宇治皇子、住吉明神、武内宿禰
御由緒 神亀元年(七二四)聖武天皇の勅を奉じて養父郡司 壬生春成が、この地に社殿を、 造営し創建したと伝へている。以来本宮は宇佐神宮の五所別宮の一と称せられ、朝廷からも厚く尊崇を受けた。慶長十四年(一六〇九)には後陽成天皇より「肥前国総廟一宮鎮守千栗八幡大菩薩」 の勅額を賜わった。
中世以降は肥前国一宮と呼ばれている。
祭神、祭礼日の案内板。
石段参道。
石段参道脇に「栄光への石段」の石碑があります。
故古賀稔彦氏が足腰を鍛えるために登り降りを繰り返したことを記した石碑で、今も鍛錬の場としてこの石段を使ってトレーニングに励む人がおられるという話でした。
たしかにこの日もストップウォッチを手にしたお父さんと、そのお子さんと思える中学生くらいの男の子、そして小学生くらいの女の子が石段の上り下りを繰り返していましたね。
境内入口に立つ二の鳥居。
鳥居には「千栗八幡宮」の神額が掛かります。
境内入口には岡崎型の狛犬さんが…
手水舎。
拝殿。
向拝下の様子。
拝殿の中の様子。
すると拝殿の中には一対の肥前狛犬さんが居ました♪
じつはこの肥前は以前は境内入口、今は岡崎型の狛犬さんがいるところに安置されていたようで、平成25年6月にみやき町の有形文化財指定を受けたあと拝殿内に安置されるようになったということでした。
この肥前ちゃんが造られたのは、安土桃山年間(1575-1603)と言われているようです。
本殿前の様子。
社殿。
社務所。
神馬。
お粥堂。お粥試の日にお粥を参拝者に供覧する場所です。
境内社の「武雄神社」。
向拝下に掛かる「武雄神社」の神額。
そして、社殿前にはみやき型の狛犬さんがいらっしゃいます。
蹲踞と構えの狛犬さん、そして足先と鬣の独特のフォルム。どこかで見かけたことがあると思いましたら、小城市の鏡神社の拝殿前に安置されている狛犬さんがこんな感じでした。
寛政12年(1800年)5月生まれの狛犬さん。石工は江頭所左エ門さんですが、西川というのはおそらく現在の小城市小城町池上西川だと思われますが、砥川型の狛犬さんとは一線を画す狛犬さんです。
本殿。
武雄神社の案内板。
「孝元天皇の皇子である彦太忍信命の子どもにあたる武雄心命をお祀りしており、景行天皇に仕えた臣下で高良大社の御祭神、武内宿禰の父と言われている。」というような感じでしょうかw
境内社の鳩森稲荷神社。
鳩森稲荷神社の案内板。
石祠群。
御神木。
参道入口横にある末社。
宮地嶽神社。
一の鳥居の西側に伸びる参道は「のこぎり形町並み」と呼ばれています。
道路の端がのこぎりの刃のようにギザギザにかたどられていて、そこに建つ家の軒先もギザギザに突き出ているため「のこぎり形町並み」と言うようです。
これは過去の戦で、敵が攻めてきた時に建物の陰に隠れて敵を迎え撃つためとだいわれていますが、行政の配慮でその町並みを残すようになっているので現在でも見ることができるようです。
今回は見逃してしまったのですが、次の機会にぜひ見てみたいものです。
それでは今日も最後までご覧いただきありがとうございました。
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