こちらの吉浦神社はJR長崎本線鹿島駅の西北西およそ4kmの距離、佐賀県嬉野市塩田町大字五町田五町田第一地区に鎮座されます。
国道498号線「五町田」交差点から、県道208号大木庭武雄線を南へ行き「火の口」信号から250mほど先にある、「佐賀県立うれしの特別支援学校」から西に500mほどの所にある「和泉式部公園」の中に位置しています。
「五町田」交差点の西を流れる、塩田川に架かる「塩田橋」のすぐ横に一の鳥居が建立され、そこから南西に600mほどの場所に二の鳥居、社殿はそこからさらに300mほどの唐泉山の裾野にある小丘の上にあります。
参道入口付近には、塩田石工の始祖筒井惣右衛門が製作した石造り眼鏡橋、そして四基の鳥居に四対の狛犬、楼門をくぐった先の境内には唐破風付き入母屋造りの拝殿と流造の本殿が建立されています。
御祭神は鍋島蓮池藩祖の鍋島甲斐守直澄公で、石段参道を上っていても山城を思わせるような規模と、狛犬を始めとする境内の石造物や末社など見どころが満載の古社でした。
「あ、鳥居があったよ」。
鹿島市へ向かっている車中で、助手席に座っていたマーちゃんが後ろの方に目をやりながら突然言いました。
進行方向の右手の道路沿いに鳥居があったというので、早速右に曲がる道路を探し神社を探します。最近は私よりもマーちゃんが鳥居を見つけることが多くなったのには笑ってしまいますw
やがて鳥居が見つかりましたが、この鳥居はマーちゃんが見かけたものではなく二の鳥居でした。
道路沿いにあったのはおそらく一の鳥居なのでしょう。一の鳥居の方に向かって目をやってもここからでは確認できませんでした。
ところが、目の前には神橋と思われる石橋があるではありませんか!
ということで、今回は嬉野市塩田町五町田地区に鎮座される吉浦神社を参拝させていただきました。
塩田川沿いにある一の鳥居を抜けて参道を進んで行くと現れる石造りの神橋。
塩田産の安山岩で作成された石橋には「明治三十三年三月再々建立」の銘が刻まれていますが、右親柱には「元禄十三年庚辰歳謹献再々建」の刻銘があります。
「塩田町指定文化財」の石碑があり、佐賀県内でも最古の刻銘が入る石造眼鏡橋ということです。
石造眼鏡橋といえば、先日参拝させていただいた「八天神社」にも、江戸時代からの原形を留めているものとしては県内唯一という石造眼鏡橋がありましたよね。
この眼鏡橋は塩田石工の初代筒井惣右衛門によって製作されたそうです。元禄13年(1700年)に建立されたということは、生誕年が1662年なので38歳の時に製作したことになりますね。
こちらが二の鳥居。一直線に伸びる見事な参道。
桜並木の参道の両脇には、おびただしいほどの数の灯篭が立ち並びます。
よく見ると、鳥居前の灯篭の上にはお猿さんが私を見下ろしていましたw
参道を進み、二径間桁橋の石造り神橋を渡ると石段参道が現れます。
三の鳥居。「吉浦神社」の神額が掛かる。
鳥居の左手にある御堂。
見上げると、夏場に来るのは嫌になっちゃいそうな石段がw
石段参道の途中、右手にあった石碑と石祠群。
こちらが四の鳥居。神額には「吉浦大明神」と刻まれており、これから先は参道が二手に分かれていました。
参道をまっすぐに進むと楼門に続く石段が現れ、右手には楼門が見える。
こちらが楼門。
楼門前には貫禄十分の狛犬さんが迎えてくれました。
嬉野市という土地柄もあり、苔むしてはいるものの顔つきといい毛足の長い鬣はまさに塩田型の狛犬さんの特徴が見られます。
背筋がピンと伸びた蹲踞の姿勢がとても素晴らしいですね。
楼門をくぐると、なんと社殿へと向かう石段参道の左右にそれぞれ手水舎がありました。
そしてまたここにも狛犬さんが!
こちらは昭和11年(1936年)4月5日生まれの狛犬さんでやはり塩田型。
時代の流れなのでしょうか、顔つきが獅子というよりライオンに近い感じがします。
社殿へと向かいます。
こちらが社務所。
社殿への石段の前で迎えてくれた三対目の狛犬さん。
大正7年(1918年)4月生まれですが、こちらは体中が体毛ではなく鱗で覆われており、足を見てみても蹄に見えるのでおそらく狛犬ではなく麒麟なのではないかと思われます。
御神牛と御神馬。
唐破風付き入母屋造りの拝殿。
御祭神 旧鍋島蓮池藩祖 鍋島甲斐守直澄公
境内由緒書きより
鎮座地 佐賀県藤津郡塩田町大字五町田字吉浦至誠山
祭 礼 例大祭・4月5日
鍋島甲斐守直澄公は佐賀藩主鍋島勝茂公の三男にして元和元年(1615)11月12日佐賀城にて誕生され、幼名を千熊丸と言う。
境内の由緒書きより
生来英邁深慮にして、武勇にすぐれ、寛永12年直澄公21歳のとき江戸に参勤し、従五位下に除せられ任ぜられ寛永14年(1637)島原の乱が起こると出陣し、これを、鎮定され寛永16年(1639)直澄公25歳のとき、父勝茂公より佐賀、神崎、西松浦、藤津の各地より三万五千六百二十五石を分かち与えられ 後に一万七千石を増し蓮池に封じ諸侯に列せられた。
公は宗藩の制度にならい制度を整え藩政をよく治め善政を行い、水路、堤を築いて農業を盛んにし、学問、産業の振興につとめ、窯業、酒造業などを盛んにするなど領民のために献身され領民から深く慕われた。
寛文5年(1665)吉浦に別館を設け、剃髪して、義峰と称して老後を送られた。直澄公55歳のとき病にたおれ、寛文9年(1669)3月5日、吉浦の館で逝去された。
直澄公の遺骸は吉浦で荼毘に伏し、吉浦至誠山(現吉浦神社)に葬った。
正献院殿義峰宗眼と謚(おくりな)した。
延宝8年(1680)庚申、至誠山、秀天霊社と称した。
文政元年(1818)150年祭が斎行され、大明神の称号を受け 以後 吉浦大明神と称し 崇拝された。
明治初年吉浦神社と称し明治12年には郷社に列せられた。
現在五町田の氏神であり、学業、商業、産業の守り神として塩田町はじめ県内外より崇敬され参拝者が多い。
流造の本殿。
そして拝殿前の四対目の狛犬さん。
台座には慶応4年(1868年)戊辰3月5日とありました。
ところが、阿形の狛犬さんの後ろに回って台座を見ると昭和36年(1961年)4月吉日の建立とありましたので不思議に思い、吽形の狛犬さんの後ろを見てみると…。
「大東亜戦争に應集受けし後を再建す」と刻んであるではありませんか!
どうやらこちらの先代さんの狛犬は金属製のものだったようですね。
平安後期から鎌倉・室町時代に作られた狛犬の多くは、木製の神殿狛犬や金属製のものが多かったと言われていますから、戦争によって金属供出の余波を受けてしまったのでしょうね。
でも、氏子の皆さんの熱意で蘇ることができて、きっと狛犬さんもさぞ喜んでいることだと思います。
境内社の「風神」と「安全大明神」。
こちらが四の鳥居から参道を右手に進んだところになります。
楼門の右側の参道にある鳥居には「文彦社」の神額が掛かる。
参道の先に見えるのが「文彦社」。
さらに別の参道の方にも鳥居がありました。
山の中に「吉浦稲荷大明神」の神額が掛かる鳥居が。
この先にお稲荷様がいらっしゃるということか…。
参道途中には「祖霊社」の神額が掛かる鳥居がありました。
境内社の「祖霊社」。
そして本日巡り合う五対目の狛犬さんは、昭和10年(1935年)10月15日生まれの幼児体型の可愛い狛犬さんでしたw
スターウォーズのダースベーダーを思わせるユーモラスな顔つきが実に面白いw
気になったのがこれ。
どちらもカメを模っているようにに見えるのですが、何かの象徴なのでしょうか。
さて、今日は1か所で五対の狛犬さんと対面することができました。
まったく予備知識もなく、マーちゃんが偶然見つけた道路沿いの鳥居からまるで導かれるように訪れた「吉浦神社」でしたが、本当にとてもいいところでした。
欲を言えば、雨さえ降ってなければよかったとw
今日も最後までご覧いただきありがとうございました。
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