乙宮社 佐賀県小城市牛津町牛津本町

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小城市の神社

今日は、佐賀県小城市牛津町牛津本町地区に鎮座の乙宮社を紹介させていただきます。

こちらの乙宮社はJR長崎本線牛津駅の東北東400mほどの距離、佐賀県小城市牛津町牛津本町の町なかに鎮座されます。

国道207号線の「江津」交差点を南に入り、その200m先の長崎本線の踏切を越えて300mほど行った左側に位置します。

境内の西側には大型スーパー、東側と正面には住宅地、そして社殿の裏は線路という立地ではありますが、境内の周囲はクリークと鎮守の森で囲まれているせいからなのか、不思議に静けさを感じさせてくれます。

参道には2基の鳥居が建立されており、一の台輪鳥居をくぐった先に名工平川偉三製作の大きな砥川型の狛犬が本能され、さらに二の台輪鳥居をくぐりクリークに架かる神橋を渡ると銅板葺きの神門、そして境内には安政5年造立の砥川型岩乗り狛犬が守護する社殿が建立されております。

由緒によると、祭神は大鷦鷯命(仁徳天皇)・多岐里比女命・多岐都姫命・市杵島姫命、永万元年に鎮西八郎為朝下向の際に若宮大明神を勧請して創建されたとあります。

社頭。

一の台輪鳥居。「乙宮社」の神額が掛かります。

一の鳥居をくぐった先では、大型の堂々たる砥川型狛犬が迎えてくれました。

台座には「石工 小城上町 平川偉三」の刻銘が入ります。

やっぱり平川偉三さんの作品は秀逸ですよね。この狛犬を見た瞬間に、この方の作品だと直ぐにわかりました。

明治28年3月建立の二の台輪鳥居。

こちらも「乙宮社」の神額が掛かります。

祭神 大鷦鷯命(仁徳天皇) 多岐里比女命 多岐都姫命 市杵島姫命

由緒 永万元年(一一六五年)に鎮西八郎為朝下向の際、若宮大明神を勧請す。
当時牛津は「濱津」といわれ、武雄黒髪山大蛇退治の、神願成就の奉告祭を行い、其の折り「牛津」と改称せり。
その後文治三年(一一八七年)肥前上松浦大川鎮守川上大明神の末社たる女神三神を牧瀬某奉斉、乙宮社大明神という。
小城藩主の崇敬浅からず社殿造営等をなし祭祀料を奉納せり。
明治六年(一八七三年)村社に列せられその折り、乙宮社と改称す。
大鷦鷯命(仁徳天皇)は政治(まつりごと)、戦いの神として信仰が厚い。
女神三柱は宗像三神と申し、国民道の模範、交通の神海上安全の神として信仰が厚い。

文治三年に、佐賀県唐津市厳木町牧瀬の淀姫神社から牧瀬外記によって遷座されたと伝わっており、上松浦大川鎮守の川上大明神の末社とされます。

牛津の名前の由来は、鎮西八郎為朝が黒髪山の大蛇を退治したという伝説からきているそうで、境内には若宮八幡宮が祠られています。

銅板葺き流造の神門とその前の神橋。

クリークに架かる神橋。

神門に架かる「乙宮社」の額には「正三位子爵源長生謹書」の銘が入っています。

源長生というのは、江戸幕府老中を務めた小笠原長行の長男・小笠原長生(ながなり)のことで、大正7年には第十四代海軍中将に進級しました。

「安政二年乙卯九月」の刻銘が入る石灯篭。

「乙宮社境内にある灯篭の銘文は、小城市出身の書家・中林梧竹によるものである。」と書かれています。

拝殿前では砥川型の岩狛が睨みを利かせています。境内にいるにもかかわらず阿吽ともに状態は非常によく、これまで見て来た江戸時代の作品の中でもとても素晴らしい作品です。

台座には「安政五戊午年 六月吉日」「石工 福地忠平」の刻銘が入ります。

銅板葺き唐破風付き入母屋造りの拝殿。

銅板葺き流造の本殿。

本殿の木鼻に施された獅子と獏の細工。

「若宮稲荷神社」。

若宮稲荷神社の案内板。

境内社の「生目八幡宮」。

生目八幡宮の案内板。

以前掛けられていたであろう「乙宮大明神 若宮八幡社」の神額が残されています。

石祠群。

石祠の案内板。

それでは今日も最後までご覧いただきありがとうございました。

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