馬川宗吾靈堂 佐賀県唐津市七山馬川

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唐津市の神社

こちらの馬川神社はJR筑肥線浜崎駅の東方およそ12kmの距離、山間部を通る国道323号線を玉島川沿いに上った佐賀県唐津市七山馬川地区に鎮座されます。

馬川神社のすぐ東に隣接する境内入口には幟杭と幟竿が建立され、境内入口の石段を上がると正面には立派なフジが生えており、その奥には頭貫に龍の細工が施された方行屋根の社殿が建立されています。

祀られているのは江戸時代の義民佐倉惣五郎(本名木内惣吾郎)。佐倉藩の苛政に苦しむ農民を救う為、自分の身を犠牲にして将軍に直訴したことに感服した村人が、馬川郷の発展を願い明治二十二年に代表者を贈り宗吾霊の御分霊を勧請したそうです。

創建のときに植えたフジも大きく成長し、その藤棚は隣接する馬川神社の境内まで延びて「宗吾郎フジ」として親しまれ、開花の時期には多くの人で賑わうといいます。

社頭。

参道は短く、馬川川に架かる石橋を渡ると幟杭と金属製の幟竿が建立されています。

入口に掲げられた案内板。

馬川宗吾霊堂 分霊縁起
 今を遡ること三百三拾有余年前、寛永より承応年間に亘り、佐倉藩(現在の千葉県印旛郡)国家老による暴政により、領民は極度の重税に苦しめられ、百姓一揆の様相を呈した。
 この時、割元名主であった木内惣吾郎は、各名主を叫合し、佐倉代官屋敷や佐倉藩の重役に減税の願いをしたが取り上げられず、遂に意を決して四代将軍家綱公への直訴を決行、願書御取り上げの結果、直訴の積みに問われ承応三年(一六五三年)旧暦八月三日公津ヶ原刑場に於て惣吾郎様は磔、お子様四人は打首の惨刑に処せられ領民の為に殉せられました。
 のち佐倉藩主堀田正亮公は失政を悔い宝暦二年(一七五二年)百回忌の折、宗吾道閑居士の法号を諡され以来木内惣吾郎は宗吾様と呼ばれるようになった。
 明治になり時代の進展に伴い義民宗吾様の犠牲的大精神は日本全土に伝えられた。
 この宗吾様の赤心義胆の報に接した馬川郷の人々は沈滞せる農民の意志を鼓舞し、馬川郷の発展を願い、明治二十二年(一八八九年)代表者を千葉県佐倉に送り、宗吾霊の分霊を勧請し、堂宇を建立して現在地に祀る。
 のち農民の守護神として毎年の命日(旧八月三日)には部落民こぞって盛大に供養を営み今日に至る。
 尚、分霊の折、境内に植えた藤が百年の大木となり、藤の季節には見事な花を咲かせ、遠来からの藤見の客で賑わっている。

御手水盤。

社殿。

屋根は方行屋根。

木鼻に施されている狛犬。

頭貫には龍の細工も施されています。

社殿の中の様子。

社殿西側にある石祠。

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