こちらの今坂神社はJR筑肥線浜崎駅の南東およそ5.5kmの距離、佐賀県唐津市浜玉町平原今坂地区の中央付近に鎮座されます。
国道202号線の「浜崎小前」交差点から東に入り、県道327号七山唐津線をしばらく道沿いに走ったあと、道路沿いにある今坂公民館から南東へ400mほど行った標高502mほどの里山の裾野に位置します。
じつは、この里山が2023年7月10日の九州北部豪雨によって土砂災害を起こし、住民の方数名が犠牲となられたばかりかこちらの今坂神社にも被害を与えました。
1508年に武雄神社(武雄市)から分霊を迎えたことから、境内の案内板には今坂神社ではなく武雄神社と書かれており、500年以上の歴史がある神社の入り口には、「武雄大明神」の神額が掛かる正徳5年4月建立の鳥居が建立されています。
鳥居をくぐり、まだ泥で汚れたままの唐津型の狛犬が守護する境内に入ると、土砂で倒壊した拝殿は解体されて片付けられており、その正面に奇跡的に残った流造の本殿が静かに佇んでいます。
神社の右側を流れる川岸は土石流で大きくえぐられており、境内の石垣も流れ込んだ土砂によって一部崩壊している部分もあり、境内の中には倒壊した石造物の残骸がたくさん残されていました。
付近には土木関係の作業車が複数台止まっており、神社の再建も進んでいるようにも見えますが、まだ土砂災害の爪痕がそこかしこに残っており、この土砂崩れがいかに大きかったのかが分かります。
神社遠景。
社頭。
案内板。
案内板には「武雄神社御由緒概要」とあります。案内板を読むと、どうやら武雄市の武雄神社を勧請してこの地に祀られたようです。
武雄神社御由緒概要(昭和四十八年一月一日)
鎮座武雄神社(武内宿禰命)命は古事記に記載されている方で孝元天皇の御孫にて景行天皇(十二代)から五代の天皇に仕え大臣の任を務め国の平定の為功多く特に神功皇后の重心として新羅征伐の話は有名で又三百歳の長命され傳説も有る。
当社鎮座の始は永生五年千五百八年(四百六五年前)武雄市武雄神社より前宮柱の祖、川島某が分神歓請以来今坂岩野の里の氏神とし御祭し来りしものなり。
正徳四年千七百十四年社殿改修鳥居を建立文化十三年千八百十六年火災にて古文書外一切を焼失し新祠造営せりという。
此の由緒は隈本宮司の祖岩見守(二十代)が奉仕神社上書による。
尚古老の言傳えには川島某が武雄神社に月参し年老いて参拝し得ないことを告げ帰りし処翌月の命日には金の御幣が川の中に有る島の古木に宿りしと云う霊験新か成りを喜び此の里の氏神に祭り自らも川島の姓を名乗しとの説も有る。
其後建物皆藁葺なりしも大正十四年に現在の如く改築せり。
鳥居再建の碑。どうやら平成30年7月にも大雨被害に遭っているようです。
参道に建立された鳥居。
鳥居に掛かるのは「武雄大明神」の神額。
左の柱に「正徳五乙未歳四月」の刻銘が入ります。
台座には、それぞれ「石工 伊東重吉」「明治三十年八月吉辰」の刻銘が入ります。
銅板葺き流造平入の拝殿。
本殿の玉垣や石垣なども一部崩壊しています。賽銭箱が見当たらなかったので本殿前に置かせていただきました。
本殿を左右から。本殿が残ったのはもはや奇跡に近いかもしれませんね。
本殿右側の石祠。
御堂。
顕彰碑の前には石造物の残骸が残ります。
まだまだ再建の道のりは遠そうですが、頑張っていただきたいものです。
それでは今日も最後までご覧いただきありがとうございました。
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