こちらの大崎八幡宮はJR佐世保線北方駅の北北西およそ2.5kmほどの距離、佐賀県武雄市北方町大崎地区の町なかに鎮座されます。
国道34号線の“北方工業団地入口”の交差点を北へ、国道498号線に入るとすぐに道が分かれ、真っ直ぐ続く細い道を300mほど行った旧長崎街道沿いの小山の上に位置しております。
参道入口に建つ一の台輪鳥居。
鳥居には「八幡宮」の神額が掛かります。
コンクリートで舗装された参道。
一段高くなったところに二の鳥居が立っており、石段参道の脇の石垣の上に肥前狛犬が居ます。
肥前狛犬としては大型ですが、これぞ肥前狛犬といった感じのオーソドックスなフォルムの肥前狛犬さんですw
二の台輪鳥居。
二の鳥居にも「八幡宮」の神額が掛かります。
石段参道が続きます。
やっと境内が見えてきました。
境内入口の両脇には神馬と神牛がいらっしゃいました。
唐破風付き銅板葺き入母屋造りの拝殿。
大正10年(1921年)1月生まれの狛犬さんは、武雄市の神社では珍しい築後型の狛犬さんでした。
台座には「福岡縣浮羽郡姫治村 石工 宮﨑梅太」の刻銘が入ります。
境内の中の様子。
天井絵。
御祭神 神功皇后 応神天皇 天照皇大神 事代主神海津見神 彦火火出見尊
大山祇神 大国主尊
御由緒
むかし神功皇后が肥前の国を巡幸のみぎりこの地に立ちよられたという縁起により、四方に注連縄を張り石祠を建て皇居を祀ったと伝えられています。
この境内は神域にふさわしい丘の上で、神社のうしろは小高く森となっております。近年そこに古墳墓があることが分かりました。古墳は円墳で弥生か古墳時代に築かれたと想定されています。
この地に建久五年(一一九五)、多久荘の地頭となった鎌倉の御家人多久太郎宗直が、皇后の皇子応神天皇を合祀し、鎮守の神として祀り、以来大崎八幡宮となったようです。その前年多久東の原に鶴が丘若宮八幡を勧請しています。
それより四十二年のち嘉禎三年(一二三七)、鎌倉の御家人橘薩摩守公業が本貫地伊予の国宇和荘より転封となり、長嶋荘惣地頭として赴任し武雄の潮見に館を構えて土着し、翌暦仁元年、息子公員に上村を譲り、父公業は下村に居り、没後は御家が譲り受け、のち橘一族はそれぞれ分家して、渋江・牛島・中村・中橋家を名乗り庄地を分け、上村は公員が知行する所となり、その子公綱・その子公資の時初めて、大崎氏を名乗ったようであります。この大崎氏の三百年に及ぶ領内経営の根拠地が北方の大崎八幡宮を中心とする館があったと考えられ、この一帯を字館と呼びます。
永禄五年(一五六二)、橘氏の一族渋江右衛門が龍造寺長信のために志久村十三塚に破れ、これより以後橘氏の勢力は郷土から後退しました。
室町時代永禄六年(一五六三)、長嶋の荘は龍造寺氏の領地となり、天正元年(一五七三)龍造寺隆信は弟長信と力を合わせ塚崎領主後藤貴明と戦い、続いて須古の平井経治と戦い、ここ大崎八幡宮に砦を構え根拠地とし勝利を得た。これは八幡神の御加護によるものと、篤く感謝の意を込めて社殿を改築したといわれ、その後社殿の修築は数度に及んでいます。
明治十二年八月村社に昇格、祭神天照皇大神・事代主神海津見神・彦火火出見尊・大山祇神・大国主尊の御神体を追加合祀し、明治三十八年、神社仏閣合併の勅令によって無格社の祭殿等を整理統合して馬神北方久津具地区に鎮座してあった神々を大崎八幡宮に遷座することになった。
大正九年六月拝殿を改築し、大崎三区の氏神として祀ることになりました。
例祭は元旦・春祭・夏祭・くんち・神待通夜・大晦の除夜参りがあります。今では子供たちの浮流太鼓が奉納されています。
流造の本殿。
拝殿から見た本殿。
境内社の北方天満宮。
菅原道真公座像の御神体。
北方天満宮の案内板。
社殿裏の石祠群。
御堂。
こちらの大崎八幡宮には塩田型の狛犬ではなく築後型の狛犬が奉納されていました。武雄市に限らず、砥川石工の里の小城市でも塩田型や築後型の狛犬が奉納されていることはままあります。
これはどうしてだろう。単に奉納される方が伝手をたどった先で出会った石工さんにお願いしてるのかなあ。やっぱり謎ですw
それでは今日も最後までご覧いただきありがとうございました。
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