ひょんなことから神社巡りをするようになり、様々な神社を参拝させてもらうことでいろんな鳥居を見るようになりました。
明神鳥居に台輪鳥居、珍しいところでは両部鳥居や三ツ鳥居などいろいろありますが、中でも私が愛してやまなくなったのが肥前鳥居です。
まさに肥前石工の芸術品といえる肥前鳥居がある神社は、ある程度は先輩方が記録に残してくださっているので事前に下調べをして参拝に向かうのですが、偶然に訪れた記録にない神社で肥前鳥居を見つけたときは本当に嬉しくてテンションが上がりまくってしまいますw
肥前鳥居とは
肥前鳥居とは肥前地方で育った独特の形式の鳥居で、室町時代の末期から江戸時代初期にかけて多く造られ佐賀県全域に分布していた鳥居です。
特に慶長年間(1596~1615)に多く造られたことから「慶長鳥居」ともいわれます。
肥前鳥居 特徴
肥前鳥居は石でできており、その特徴としては笠木と島木が一体化していて、笠木の先端にかけて反り返りながら大きく外方に跳ね上がっていることです。
笠木と島木、貫に柱の各部分が1本ではなく継ぎ材となっており、原則として多くは各部分が3本継ぎになっています。
また、両端の柱が下にゆくほど太くなっていて、亀腹は設けずに柱を削り出して直に生け込みとなっており、柱の上部には台輪が付けられていて貫には楔がありません。
肥前鳥居と砥川石工
肥前国で独自の成長を遂げてきた肥前鳥居ですが、そこで欠かすことができないのが砥川石工の存在です。
砥川というのは現在の佐賀県小城市牛津町の砥川地区にあたり、そこにある丘陵地帯では丈夫で長持ちする安山岩が産出していたため、昔から石材として利用されていたので多くの石工さんたちが活躍していたそうです。
江戸時代には、石材産業の中心地として鳥居や仏像などをつくる石工技術が確立し、砥川の石工集団と呼ばれた職人たちは多くの石仏や鳥居を製造し、そこで肥前鳥居や肥前狛犬といった独創的な作品が生まれていったのです。
のちに砥川石工から分かれた塩田石工(現:嬉野市塩田町)と値賀石工(現:東松浦郡玄海町)をまとめて肥前石工と呼ばれるようになり、次々に独創的な肥前鳥居肥前狛犬を造り続けたのです。
ところが西暦の1600年代の終わりごろからは、時代の流れといえばいいのでしょうか当時鳥居の主流となっていた明神鳥居に代わることでその姿を消していったようです。
肥前鳥居がある地域と肥前鳥居がある神社
肥前鳥居は佐賀県の全域に見られるほか、長崎県や福岡県の一部の地域でも見ることができます。
そのワケは、当時のお殿様によって石工さんの出稼ぎが禁止されていたのですが、それでは石工さんたちの生活が立ち行かぬということから、「長く滞在せずすぐに帰ってこれるようなところだったら出稼ぎに行っても行ってもいいよ」って感じで少し緩くなった時があったようです。
その時に、佐賀県の隣県に出稼ぎに出た石工さんによって幾ばくかの肥前鳥居が造られたようです。そのことは多久市郷土資料館で開催された「肥前石工の足跡を訪ねて」で展示された資料に詳しく記されていました。
ただ、初期に製造された肥前鳥居が当時のままの完全な形を保っているものは少なくなっていることも事実で、風化や老朽化により一部を新しい石材で補修されているものが多くなっています。
特に「貫」と呼ばれる部分は、石材自体が薄い石材なのでほぼ新しい石材に取り換えられており、昔のままの貫がそのまま残っているのを私は見たことがありません。
さらに、初期のころの肥前鳥居から、次第に主流となっていた明神鳥居へと変わっていく過程に造られた鳥居が、明神鳥居でありながらも肥前鳥居の特徴を残している鳥居に巡り合うことも神社巡りの妙味でもあります。
私が参拝した神社では、内砥川八幡神社、鏡神社、五の宮神社、輿止日女神社などで肥前鳥居が見られましたが、とくに印象深かったのは鹿島市森の「五の宮神社」の肥前鳥居でした。
ドーンと境内に立ちふさがるようなその偉大な姿に圧倒され、時代の流れにも負けずにしっかりと神社を護ってきたという威厳さえ感じたほどでした。
少ないとはいえ、資料を見ると肥前鳥居は佐賀県内だけでも60基以上はあるようですから、これからも肥前鳥居と巡り合うチャンスはたくさんありそうです。
ただ、記録にない肥前鳥居にも巡り合っているのも事実なので、じつはまだまだ知られていない肥前鳥居がありそうなので、これからも肥前鳥居の情報はどんどん追加していきたいと思います。
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