こちらの熊野神社は西九州新幹線嬉野温泉駅の南西およそ3.3kmの距離、佐賀県嬉野市嬉野町大字岩屋川内下岩屋一区に鎮座されます。
県道6号大村嬉野線の「轟小学校前」交差点の東に100mの場所、西湯岳と呼ばれる里山の裾野に位置しており、胸ほどの高さに積まれた石垣の境内には重厚感のある重厚な拝殿が建立され、伊弉諾大神、伊弉册大神、事解之男神、菊理媛命の四柱が祀られています。
境内は社頭から末広がりに東へ伸びており、七段ほどの石段参道を上がると左右に座像の石祠が出迎え、入口に立つ台輪鳥居をくぐると塩田型の狛犬が守護する入母屋造りの拝殿と流造の本殿が建立されています。
また、金毘羅大神宮の石祠が祀られている境内西側に建立された社には、造立年代不詳の肥前狛犬が一体だけ奉納されています。
社頭。
境内入口に建立された台輪鳥居。
「熊野神社」の神額が掛かります。
右の柱に「貞享三丙寅年十一月吉旦建」の刻銘が入ります。
境内入口に設置してある案内板。
熊野神社 由緒沿革
所在地及び社名 佐賀県藤津郡東嬉野村岩屋川内
現在、佐賀県嬉野市嬉野町大字岩屋川内
村社 熊野神社
末社 正一位 稲荷大明神
御祭神 伊弉諾大神 伊弉册大神
事解之男神 菊理媛命
由 来
大権現が天竺国より西大(岩屋川内藤川祭代)にお降りになられ『これ吾が有縁の地』と暫くご滞在された処といわれ、今もこの地を祭代と呼んでお祭りしている。
平安時代、日本の諸神も仏の化身だとする神仏混合説で阿弥陀如来を熊野大権現と稱え、夫婦の結びが厚く『阿弥陀如来熊野大権現』として富貴神寿命神として信仰が続いた。
時代は遷り徳川幕府が天下を治め、万治三年庚子霜月、肥前蓮池初代藩主鍋島直澄公は、領内の安穏と五穀豊穣・武運長久を祈願され、現在地(下岩屋亀頭六)に遷宮再建された。その後、明治維新により藩政が奉還され、明治政府の神仏分離によって、当宮も十二所権現宮を熊野神社と改名、村社として現在に至る。
石段参道を上がったところには左右に石祠が配置されていますが、おそらく随身像ではないかと思われます。
手水舎。
石畳の参道の先には重厚感のある瓦葺き入母屋造りの拝殿が建立されています。
拝殿前には阿形がかまえ、吽形が蹲踞の塩田型狛犬が奉納されています。
左の台座には「石工 永石吉三郎」、右の台座に「大正五辰十月吉日」の刻銘が入ります。
拝殿の中の様子。中央に「熊野神社」の社号額、左右に鮮やかな配色の奉納絵馬が掛けられています。
流造の本殿。
本殿の上には木彫りの鬼の面と、同じく木彫りの翁像が掛かっています。
拝殿右側には入母屋造り妻入りの境内社が祀られています。
社殿前には奉納年代不詳の塩田型の狛犬が奉納されています。
境内社の中に祭祀されている木像。
拝殿の西側にも玉垣が続きます。
熊野神社の社殿の西側に
金毘羅大神宮の石祠が祀られています。
石祠の左側には一体だけの木造の狛犬が奉納されています。
土俵。
社殿遠景。
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