こちらの小松神社は、JR長崎本線佐賀駅の東南東およそ7kmの距離、神埼市と福岡県大川市と隣接する佐賀県佐賀市蓮池町大字小松地区に鎮座されます。
県道20号佐賀大川線と、県道48号佐賀外環状線が交差する「蓮池」交差点から東に1kmほど、中地江川に架かる橋を渡った小松地区の西の外れに広がる田圃の中に佇む鎮守の森の中に位置しています。
車一台が通れるほどの道幅の農道を西に50mほど行くと、参道入り口に笠木の反り具合が鎮信鳥居を思わせる寛文十二年造立の肥前鳥居が奉納されており、そこから社殿までを鳥居幅の石畳が真っ直ぐに敷かれています。
鎮守の森に護られた境内の奥に入母屋造りの拝殿と流造の本殿が建立されています。御祭神は平清盛の嫡男の平重盛(小松内大臣)公。この地にたどり着いた平家の落人、平重盛を祖とする小松十兵衛一族の末裔が、重盛公を小松大明神として祀り心のよりどころにしたのが起源といわれています。
これはもしかして鎮守の森では…。
大川市方面に向けて車を走らせていると、中地江川に架かる橋を渡ったところの右側の田圃の中に鎮守の杜らしいものを見つけました。
ひょっとしたらと思い、150メートルほど先から右折して農道を南に向かうと間もなく鳥居が見えてきました。やっぱり鎮守の森に間違いなかったようです。
自動車を道路わきに停めてそのまま歩いて正面に回って鳥居を見ると、なんと立派な肥前鳥居ではありませんか!
笠木の反り返りを見ると、なんだか長崎県にある鎮信鳥居のような雰囲気もします。
肥前鳥居に掛かるのは「小松社」の神額。
柱にはびっしりと刻銘が入ります。
左の柱には「寛文十二壬子年五月吉旦」の刻銘が入ります。
入母屋造りの拝殿。
鎮座地 佐賀県佐賀市蓮池町小松1060
御由緒 小松神社には、平清盛(たいらのきよもり)の嫡男であり、平家の中でも特に人徳の高かった小松内大臣(こまつ・ないだいじん)・平重盛(たいらのしげもり)公を、小松大明神として祀られています。
「小松史料」より抜粋
壇ノ浦の戦いで平家一門は海底に沈みましたが、平重盛を祖とする小松十兵衛一族136名はその場を落ち、平家の所領(当時北部九州における平家の勢力【大宰府・神崎荘・江上氏・原田氏等】は絶大であり、北部九州の諸豪族は殆ど平家の一族から恩恵を受けた家臣ばかりであった。)である九州に向かって敗走しました。九州の海岸づたいを南下し、山々をさまよい、筑後川沿いを下り、今の蓮池町小松(蒲田郷の西部)にたどり着き土着しました。
落人たちは蒲田郷の温情に援けられ城山を開墾し、食作物をつくり郷民とも融和し、ある年月が過ぎた頃には、重盛公の孫たちも成長し一族も600余名になった伝えられています。
源氏が滅んだ後、北条氏の世に、土着していた落人たちは、人徳の高かった重盛公を慕い、たどり着いた小松の中地江の曲がりの地(蒲田郷の西部)に小さな祠(ほこら)を建立し、重盛公を小松大明神として祀り、心のよりどころにしたのが小松神社の起源です。
拝殿の中の様子。
本殿前には「小松社」の社号額が掛かり、一本の太刀と隋神様がそれぞれ左右に分かれて安置され「左三階松」の家紋が飾られています。
瓦葺き流造の本殿。
じつはこの小松社にも、佐賀市を中心に伝承されている天衝舞浮立の「小松浮立」があり、佐賀市の重要無形民俗文化財に指定されています。
この小松社の浮立は、他の天衝舞浮立と異なり笛が用いられずにゼイが用いられています。その理由は小松浮立は平家の落人伝説に起源しており、平敦盛の「青葉の笛」の故事に基づき笛の音を忌んでのことと言われているそうです。
末社群。
残念ながらこちらの小松社では狛犬との出会いはありませんでしたが、立派な肥前鳥居と巡り合うことができました。
そして偶然に訪れた神社が、平清盛という歴史上の人物の名前が出てくる由緒の神社だったということにも驚きでした。
さて、今度はどんな神社と巡り合うのでしょうか♪
今日も最後までお読みいただきありがとうございました。
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