佐賀県多久市多久町にある西渓公園。
当時炭鉱王と呼ばれた高取伊好(たかとりこれよし)氏が多久領女山多久家の屋敷跡を買い取って私財を投じて整備し、のちに多久市に寄贈したものだと言われています。
その西渓公園の西側には平屋の建物が建っており、その中に多久市が管理する資料館の「郷土資料館」「先覚者資料館」「歴史民俗資料館」がありました。
公園を利用していた時にはまったく気にも留めなかった建物だったんですが、「あらあ、こんなのがあったんだね」って感じでしたw
多久市の歴史を知るのもいいことだなと思って入ってみることにしました。

もっとも私の関心を引いたのは多久市歴史民俗資料館でした。
そこで目にしたものは、まさに私が幼少のころから思春期を過ごしてきた昭和の時代の暮らしの様子そのまんまでしたw
中でも、「立山炭鉱」という4文字が懐かしくもあり、切なくもあり、哀愁もありと、なんとも言えない不思議な気持ちになったのはどうしてなのでしょうか。
感傷に浸るというのが、きっとこういうことなのでしょうねw
私の父親はその立山炭鉱で炭鉱夫をしており、おそらく交代制だったのでしょう、昼間に寝ていることもあり知らないうちに出掛けていたこともありました。
当時は父親の仕事が危険な仕事なんだとは考えたこともなく、やはり子どもって呑気だったんだなとつくづく感じましたね。

炭鉱の坑道入り口のレプリカがありましたが、入口の上の方には神棚が設けてあり、事故がないようにと神様にお願いしていたということがうかがえます。
展示されていた炭鉱夫の着衣や装備品を見ても、まだ幼かったせいかピンとくるものはありませんでしたが、形が特殊だった炭塵マスクはしっかりと記憶に残っておりました。

年譜を見てみると、立山炭鉱の閉山の具体的な表記はありませんでしたが、「昭和42年までに殆ど閉山してしまう」とあったので、おそらくこのころだったと思われます。
このころから転校していく級友が多くなり、生徒数がどんどん少なくなっていったのを覚えています。
「弁当温め」なんかは本当にしっかりと覚えていて懐かしかったです。
ほんのり暖かいお弁当は、寒い教室で凍えたしもやけだらけの手をやさしく温めてくれて、とても嬉しかったことを思い出します。

あのころの同級生も、もうすっかりおじいちゃんおばあちゃんと呼ばれているんでしょう。
炭鉱の閉山で、お別れも言えないで突然別れてしまったクラスメイトはいま思い出すだけでもたくさんいます。
もう一度会ってみたいものです。
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